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創業の想い

創業者 中川新次郎

大正6年、私の曽祖父に当たる中川新次郎が大阪市北区、現在の大阪市都島区片町(大阪城のほとり)中川鉄工所という小さい工場を始めました。その後、時代は戦争に突入し陸軍兵器廟の軍需品を製造しておりました。加工する装置に困っていた折に自社開発したねじ切り装置、中川式英米螺旋装置機で特許を取得し、大阪市より工作機械の優れた開発を行なったとして表彰もいただきました。その後、太平洋戦争が始まり、一緒に働いていた祖父の兄弟3人は全員戦争に動員されました。

終戦後、大阪大空襲で周り一面焼け野原になり激戦区に送り込まれたのであきらめかけていた折に、ひょっこり一番やんちゃでわんぱく者の祖父だけが生還してきました。それが中川鉄工株式会社の初代社長、中川楠雄です。

少しの間、あたり一面の焼け野原で途方に暮れていましたが、自分にできるものは何かと考えた際、やはり“戦後のわが国 復興はものづくりだ!!”“我々がものづくりの底辺を支えないと誰が支えるのだ。”という熱い想いの元、資金を工面し、バラック小屋を建てて、中古のベルト掛け旋盤を購入し、再度昭和21年4月中川製作所として船出いたしました。

当時は電気がうまく供給されずに仕事が捗らない中、まわりが電気を使わない深夜や早朝に好んで機械を回していたそうです。今すでに祖父が亡くなり10年になりますが、ものの判断に困ると父と二人で“爺さんならどうしてるかなあ?”厳しいながらも優しさ覗かせていた祖父の面影を浮かべ決断に迫ることがしばしばです。

その後昭和50年12月に法人を設立し、中川鉄工株式会社と名も改め現在に至っております。平成元年に父である中川勲が代表取締役に就任してからも、“ものづくり立国 NIPPON”の底辺を支えるという気持ちで取り組んできました。その延長線上で加えることまごころを込めてお客様に商品を提供するということに行き着きました。今までに無かった所謂平成不況を体験し、ものづくりだけじゃだめだ。やはりそのものづくりの商品の中にまごころを注入した製品でお客様の満足を得ようという方向へ動きました。時代はただ製品を供給しているだけじゃだめになってきました。

もうすぐ創業100年を迎えることになります。私で4代目になりますが、創業当時から基本はわが国のものづくりの底辺を支えるということと、人と人とのふれあいを通じて、まごころ持って取り組む姿勢です。いつも我々経営層の心の中には祖先の面影が判断基準にあります。

弊社、我が家には、代々受け継いできたものがあります。

“鉄工所は大きくしたらあかん。小さいながらも堅実にやってたらつぶれることは無い。儲かれへんけど…”

この言葉を真摯に受け止め、今後も中川鉄工発展のため、わが国のものづくりの底辺を支える技術の構築のため、ものづくり立国日本の礎になるため、精密機械加工一筋に忠実に技術力向上を使命とし、社員一同専心努力いたしてまいります。

【2008年12月 中川 裕之】

創業の想いを文書化するきっかけは、2017年に来るべく創業100周年を前に、やはり創業者の想いを再確認しておく必要性に気づいたためです。祖父、祖母が亡くなり、遺品の整理をしていますと、大正末期から昭和初期にかけてのご先祖様の写真が出てきました。この状況で出てくるということは、ご先祖様も日の目を浴びたいと訴えておられるのかと、創業の想いの編纂、中川鉄工の創業よりの歴史を体感いただく、中川鉄工ミュージアムの設置と相成りました。

中川鉄工ミュージアム

弊社の創業よりの一連したものづくり業界への想いは、身の丈に合った経営の会社です。他社様が嫌がる仕事でも、まごころを込めた丁寧な仕事で、顧客満足を向上し続けて、自分の代を次の代へバトンタッチし続けることではないかと思う次第です。なお、この創業の想いの上に、社員の中から選ばれたメンバーで、現在の経営理念も作り上げております。理念は毎朝朝礼の際に、社員全員で唱和しており、ものごとの、経営の、仕事の判断基準になっております。

  • 中川式英米螺旋装置機
    ■中川式英米螺旋装置機
  • 中川鉄工
    ■戦争に動員された祖父の兄弟
  • 中川鉄工
    ■昭和21年当時の中川製作所

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